西表島に芭蕉布の原風景を訪ねて
10月の終わりごろ、夏から秋に映ろう西表島・紅露工房に、私たちと沖縄科学技術大学(OIST)の研究員でプロジェクトリーダーの新里さんと、石垣昭子さんを訪ねてきました。
石垣昭子さんは、沖縄八重山の伝統的な植物繊維織物の継承者でもあり、同時にその技術を使った現役のクリエイターです。様々なお話を伺う事、のべ5時間にも渡りました。お話の冒頭に…、
「水牛を由布島からもらい受けてね。今この家と私たちの暮らしに慣れてもらってるの」
西表島では水牛を濃厚に使う伝統がありました。でもさすがに今では機械化されています。けれども、
「泥染にはね、深い水田がちょうど良くって、それが水牛にピッタリなの」
「昔は水田の周りには、芭蕉布を植えておいて防風林代わりにしてたのよ」
私たちが伺ったのは、糸芭蕉を績む(「うむ」と読みます。糸づくりすること)ことが、芭蕉布生産の最大のボトルネック(第ゼロ回を参照ください)。その工程を丁寧に紐解くことが大事だと考えた次第です。それは、芭蕉布が沖縄の暮らしの中で、どのような位置づけにあったのか?文化や歴史を紐解くことに繋がります。
西表島と芭蕉布の歴史にふれる
お話は西表島西部の廃村「崎山村」に移ります。
「崎山の廃村跡を見ると、そこには今でもまだ芭蕉の畑があるのよ」
八重山諸島では、芭蕉、シークワーサー、粟、苧麻(ちょま)を村落で植えていたようです。芭蕉布の衣類は「祝い事」に、苧麻の衣類は「神事」にそれぞれ役割が違ったそうです。布には、それぞれ意味付けがあり、特別で価値の高いものだったことが想像できます。
また人頭税が明治期まで存在したため、田畑がある地域以外は、税金のために織物を収める必要があり、それが沖縄各地の織物文化の背景になっているようです。
「芭蕉布の最初の関りは織り仕事。若い頃、崎山出身のおばあさんが崎山村の芭蕉を績むことが出来た最後の人で、績むことは出来たけど、目が悪くて織りは出来なかったので手伝ったのよ」
(つづく)